何年か前のことである。 知人からとある彫師の話を聞いた。 少々おかしなところのある御仁だが腕はたいそう良く、御代も安いという。 そんなうまい話があるかと初めは疑っていたものの、知人 -飛脚を生業としているものである- 背中に彫られた虎の絵の美しさに惚れ込み、私も是非とも彫ってみたいと彼に頼み込んだ。 それならば、と彼が告げたのは町外れの古い長屋の一室だった。 後日、その部屋を尋ねてみることにした。長屋の中はかび臭く、けして快適ではなかったが、これから自分の背に入れる墨のことを考えると気にはならなかった。教えられたとおりに部屋の戸を三回叩く。 「どうぞ」 低くかすれた、けれども女のものであろう声が聞こえた。私は一瞬躊躇ったが思い切って戸に手をかけた。滑りの悪いのをこじ開けて、部屋の中には一人の女人がいた。 長い髪は結いもせずに床に垂れ、化粧も地味だ。けれど、彼女は私が今まで見たどの女よりも品のある顔立ちをしている。切れ長の目を縁取る睫毛は長く、鼻も口も小振りで、紅い唇が静かな笑みをたたえていた。 「奥方様ですか?」 こわごわ私が尋ねると、彼女はいいえぇ、と首を振った。 「妾が彫師ですわ」 私はあっ、と声をあげた。彫師、という職業からなんとなく男性であろう、と思いこんでいたのだ。こんな細面の美女だとは思いもしなかった。 「驚くのもむりないですわ」 あっけにとられている私を見て、彼女が笑いながら言った。 「お客さんには、妾が女だと言うことは言わないようにしてもらっているんです」 なるほど、確かに知人も彫師の容姿には全く触れていなかった。 私が一人得心していると、女が旦那もお願いしますね、と小首をかしげていった。私はそれに頷いた。 「何をお彫りいたしましょうか」 女は足下に置いた帳面に手を伸ばそうとした。しかし、私はそれを遮って、彼女に一枚の図面を渡した。そこには大きな女郎蜘蛛が一匹書いてある。 「これを彫っていただけないか? 」 そう尋ねると、構いませんわ、と彼女は答え、手元の紙に目を落とした。 彼女はまじまじとそれを眺め、やがて、 「ほう」 と一言だけ呟いた。 その日はそれだけで長屋を後にした。夜に例の知人が尋ねてきて、久方ぶりに酔いつぶれるまで一緒に酒を飲んだ。 その後、私はしばらくこの長屋に通い続けた。女とはすっかり打ち解け、仕事の合間に世間話などもするようになった。けれど、そのうち彼女への好意の裏に、ある種の恐怖を感じることがしばしばあった。 美しいと思っていた切れ長の目と紅い唇。優雅な、しかし、どこか婀娜っぽい姿態や言葉遣い。それがなにかの拍子にただ恐ろしく不気味なものへと反転する。 そんなときに私は幼子の如く、従順に振る舞うより他はなかったのである。 もっとも、変わったのは私の心境だけで、女にとっては普段通りに振る舞っているにすぎない、はずなのだ。 「どうして旦那は蜘蛛を彫ろうと思ったんですか? 」 私の背中に針を刺しながら女は言った。ずいぶん長い期間ここに通い続けて、作業ももう終わりに近づいていたのだが、こんなことを聞かれたのは初めてであった。 「蜘蛛を彫る人間は珍しいかい」 「いいえぇ。流行ではありませんが、そこそこいらっしゃいますよ。けれど、旦那には蜘蛛に拘る理由がおありなんでしょう? 」 見抜かれている。私はうつぶせのまま顔をしかめた。女は針の手を止めて、甘く囁いた。 「妾に教えてくださいませんか? その理由を」 嗚呼、私には逆らえない。背中ごしに感じる、声が、唇が、瞳が、私を責め立てるのだ。 「蜘蛛は、私の母なのです」 *** それは、私が持つ最古の記憶であった。 幼子の私は薄汚れた着物を着て、部屋の隅にうずくまっていた。私はただ唇を噛みしめ噛みしめ、ひもじさに耐えていた。 そんな時、足下でかさかさと音が聞こえた。ぱっと顔を上げた私の目に映ったのは、一匹の女郎蜘蛛であった。私はそれに向かって手を伸ばし、はっきりとこう呟いた。 『母さん』 それから、蜘蛛は私の手を噛んだ。 *** じゃあ、と私の話に耳を傾けていた彼女が呟く。 「貴方は蜘蛛が憎いのですか? 」 素直に解らないと答えた。 「貴方は母が憎いのですか? 」 これにも解らないと答えた。そもそも、本当に自分が蜘蛛から生まれたなどとは思っていない。ただ、私が母だと認識したものは後にも先にもあの蜘蛛のみであった。だから、私は母への憎しみも愛情も感じることはない。 突然背中に鋭い痛みを感じた。彼女が針を刺したらしい。 「それじゃあ、妾が」 彼女は口元を私の耳に寄せた。 「貴方の憎しみを彫ってあげましょう」 止むことのない痛みを受けながら、私は思った。 これが母の温もりか。 それ以来、私が彼女の元へ行くことは無かった。背中の蜘蛛は未完成であるらしく、私の背中を見た人がこう言っていた。 「脚が一本足りない」 私はこれから一生この蜘蛛と暮らす。 勿論、彫り直す気は毛頭無い。 |