こつん、という音を聞いた。


「しぃちゃん」
まどろんだ頭をすっきりさせると、カーテンを開けた。月明かりがほのかに明るく柔らかに部屋の空気を包み込み、ベランダに立った少女を照らした。
「鈴蘭、お前また飛んできたのか?」
「まあね。病院って暇なのよ」
鈴蘭はシンプルなデザインのパジャマにガウンを羽織っただけという、秋の夜にはいささか冷えるであろう出で立ちでたたずんでいた。 俺は裸足のままベランダに出た。
「体の具合はどうなんだ?良くはなってきてるのか?」
彼女は問いに答えず、俺の手をぎゅっと握る。その瞬間、躰がふわっと宙に浮き、少しずつ上昇しはじめた。
「お邪魔します」
そう呟いて、たすんと屋根に着地した。吹き抜ける風が氷を含んだみたいにきりきりと冷たい。
「びっくりした?久しぶりだよね、しぃちゃんと一緒に屋根に登るの。」
くすくすと笑う鈴蘭の声を聞きながら、俺はしばし呆然と突っ立っていた。
(きれい)
屋根に登ったとはいえ、所詮二階建ての民家。さして高いわけでもない。だけど、目に映る景色には妙に心を打つものがあった。


「これが最後だから」
「え?」
さらりと告げられた台詞に引っかかりを覚え、隣にいる彼女の顔を見た。目が合う彼女は曖昧に笑って握りっぱなしだった手をほどいた。
「わたし、明日死ぬの。だからね、ばいばい」


彼女は笑っている。少し、さみしそうに。なら、俺は今どんな顔をしているのだろう。多分、彼女みたいには笑えてないだろう。
「あのね、私、しぃちゃんのこと大好きだったよ」
「知ってる」
思いを言葉に上手くできなくて、俺は彼女を抱きしめた。腕の中で彼女は昼寝する猫みたいに心地よさそうな顔をした。
「多分ね、しぃちゃんは幸せになるよ」
「俺みたいな奴に、幸せなんて」
「ううん。来るよ。絶対。わたし嘘言ったこと無いでしょう。しぃちゃんはこの先たくさん苦労するけど、同じぐらいに幸せなこともたくさんある。
優しい奥さんもらって、可愛い娘が出来てさ。でもね」
彼女は俺の腕を突き放して、空を仰いだ。
「わたしの方が綺麗。その奥さんよりも。きっと」
彼女は泣いていた。口を真一文字に結んで、目を赤くして俺を見あげて。
「だから、だから、幸せになんないとぶっころすから!」
彼女はそう叫ぶと、ふわりと飛び上がった。そのまま、空を翔け、夜の闇に消えていく。
その姿は鳥と言うよりは魚に似ているな、となんとなく思った。


鈴蘭の予言通りあれからいろいろ苦労してそれと同じぐらい幸せも手に入れて俺は大人になった。
「鈴も飛べるかな?」
娘が絵本を片手に俺に尋ねた。奇しくもその本は空を飛ぶ少女の話だったらしい。俺は何の確証もないが奇妙な自信を持って答えた。
「飛べるさ、きっと」
彼女がもう少し大人になったら俺が世界で一番好きだった人の話をしてあげようと思う。

たとえ、今ここに鈴蘭が現れても、俺は呪い殺される心配をする必要はないだろう。俺の幸せは確固たる形をして俺の手を握りしめているのだから。