子供の頃、捨て猫とか捨て犬とかそういう類のものは拾わないタイプだった。 そもそも、捨て犬らしい捨て犬―マンガみたいにダンボールに入れられているあれだーなんて見たことないし、それを見たところで拾うことはなかっただろう。
けれど、何の気まぐれか拾ってしまった。よりによって猫でも犬でもなく人間を。


私が大学に行かなくなったあの日、私は携帯電話を二つに折って、夜の海に捨てた。電話は思ったよりもあっけなく、奇妙な音を立てて死んでいった。 もうやってくるメールにも電話にも煩わせられることはない。そう思うと少し気が楽になって、踵を返した。早く家に帰って毛布にくるまって眠りたかった。
この場にとどまっていると、ずぶずぶと砂の下へ埋まっていきそうで恐かったのだ。
歩を進めていくうちに、足に柔らかいなにかがぶつかった。


そして、私は砂浜に横たわる女の子を見つけた。


彼女の外観はたとえ、暗い夜であっても目を惹いた。蜂蜜を薄めたような金髪は彼女が明らかにこの国の人間ではないことを示していた。おそるおそる透き通るような白をした頬に触れてみると、彼女はぴくっと目を開けて、力なく体を起こした。私を見つめた薄い茶の瞳は何の汚れもなく、美しかった
。 正直、ここから先のことはよく覚えていない。ただ、潮で痛んだ彼女の髪を洗ってやったことはおぼろげだが記憶がある。目に浮かぶのは彼女の白い躰に無数についた鮮やかな痣。

***

「ヒロちゃんの好きな御伽話って何?」
「御伽話?」
ナオの問いかけを疑問系で返すと、彼女はえへへ、と笑ってレポートの参考にしたいのだと言った。
「チカ君とかは御伽話って柄じゃないし、その点ヒロちゃんは読書家だしね」
「あー、私さあ、童話ってそんなに読んだこと無いんだよね」
「え、小さい頃とかにはあるでしょ?」
彼女は当然のように聞き返す。彼女はやはり、愛されて育った子なのだろう。
「私ね、小さい頃親に絵本とか読んでもらった記憶ないの」
「ごめん」
私の言葉にナオが気まずそうな顔をする。しくじった。あわてて、うち共働きだったのよ、とフォローする。
「大きくなると、御伽話とか馬鹿らしくなっちゃうしね。ナオは好きなの?御伽話とか」
「んー、話にもよるなぁ。お姫様と王子様が結婚してめでたしめでたしみたいなのはあんまり好きじゃないかな。やっぱり一番は人魚姫かなあ」
「……人魚姫?」
「ん、変かな。でも、ああいう哀しい話好き」
私の言葉の意味を誤解してナオは言う。私は彼女のその無邪気さが大好きで、大嫌いだった。

(ごめん、私その話知らないの)

***

夢を見た。私がまだ大学に行けたときの夢。私の半生の中で一番楽しかったのはなんだかんだ言ってあのときだったのかもしれない。 けれど、私が自分でそれを壊してしまった。あろう事か他の人の分まで。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)
気が済むまで虚空に謝ると、ベッドからフローリングの床に降りてしゃがみ込む。隣に敷かれた布団にはあの子が寝ている。 彼女を拾ってから二週間が過ぎた。初めこそ警察とかに届け出た方がいいのかな、と思いもしたけれど、たぶん今はそんなことできない。 それくらい彼女に依存している気がする。 いい子だし、彼女の料理(宿代のつもりか、彼女は毎食手を抜かずに作ってくれる)はおいしいし、何より、彼女といると少し胸の奥の方についた傷が少し癒える気がした。 額を撫でると、彼女は薄目を開けた。どうやら起こしてしまったらしい。
「私さ、あんたの声聞いてみたいんだよね」
彼女に話しかける。返答はなかった。
私は彼女に出会ってからずっと、彼女の声を聞いたことはなかった。



どんなに人と関わりたくなくてもお腹は空く。だから、週三回のバイトは休まずに出ている。 バイトの日はあの子に留守番を任せて渋々と家を出て行く。ずっと眠り続けていられたらどんなに幸せだろう!と思いながら。
けれど、帰ったら出迎えてくれる人がいる、と思うと少しだけ胸の中で渦巻くどろどろしたものが少し綺麗になる気がした。
今日もバイトの日で、いつものように仕事を終えた。その帰り道、ふと思いついて本屋に立ち寄った。普段は立ち入らない児童書コーナーにおそるおそる入ってみる。 幸い、人はいない。私は其処の童話の類が置いてある棚を凝視し、人魚姫と題された本を探す。今日見た夢のせいでうっかり読んでみたくなってしまったのだ。 ナオの口ぶりからして、知らなくてはおかしいぐらい有名な話のようだし。
見つけたその本は、立ち読みで事足りるぐらいの厚さだったが、なんとなくレジに持って行ってしまった。 たぶんそれは表紙に水彩絵の具で描かれていた少女がどことなくあの子に似ていたからだと思う。

アパートのぼろい階段を上って、自分の部屋の前まで来ると、ピンポン、とドアチャイムを押す。いつも、あの子はすぐにドアを開けて、笑顔で出迎えてくれる。 それが嬉しくて鍵を持っていてもわざわざドアチャイムを押してしまうのだ。
けれど、今日に限ってなかなか返答はない。もう何回押してもドアが開く気配がないので、仕方なく鍵を開け、部屋の中に入る。


其処には誰もいなかった。


お鍋の中にはエビとイカの温かいクリームシチューが入っているのに、食卓に在るのは一人分の食器だけ。 彼女の寝ていた布団も片付けられていて、部屋の中はやけに綺麗だった。
テーブルの上に在った紙には読めない言葉で描かれた短い文章が描かれていて、それの隅っこの方になにかの水滴を落とした染みが一つ。それは、涙のあとに見えた。
彼女は私の元から消えてしまったのだと。私はまた、ひとりぼっちになったのだと。
そのことに気づくと目の前に黒が広がった。その闇は冷酷で、けれどまるで人の腕の中のように優しい暖かさを持っていた。


自分が眠っていたらしい、と気づいたのは夜の三時頃だった。のそのそと起き上がって、鍋の中を見ると其処にはやっぱりシチューが入っていた。
全て夢だったら良かったのに、と呟いて、私は買ってきた絵本を読み始める。なんて哀しい話なんだろう。 一人の少女の幼い恋心が全てを犠牲にして、壊れていく。ああ、馬鹿な人魚姫。あんたが言葉を取り戻しても、王子様はたぶんあんたとは結婚しなかったと思うわ。 もし、王子様があんたを本当に愛していたら、言葉なんて通じなくても、その温かい腕で気持ちを伝えてくれたでしょう。 叶わぬ恋なら、いっそのこと捨ててしまえばいい。与えられたそのナイフで王子様の胸を突いて殺してしまえば良かったのに。ああ、なんて馬鹿で愛おしい人魚姫。


絵本を閉じ終わるとようやく私は泣くことが出来た。


私があの子と過ごした泡沫の幸せな時間はもう、決して取り戻すことは出来ない。だからこそ、子供っぽい妄想をし続けることを許して欲しい。
あの子はきっと人魚で、海に溶けてたゆたっているんだ、と。



(でも、私はあんたの王子様にはなれない)